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仏教教室シリーズ④ - 中道って? 

前回は仏教が生まれた時代は、どのような宗教的背景があったのか、どんなところでお釈迦様は何を感じて何を考えたのか、ということを学びました。


まず、お釈迦様は当時の修行者たちが行っていた修行を行いました。よく知られているところですが、いわゆる苦行をしたのだそうです。

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伝わるところによると、苦行中のお釈迦様の様子は


六年間、足をくみ、威儀を正して坐り、雨風雷にもめげず、黙として、

或る時は、口と鼻との呼吸を止められると、内にこもった息は、凄まじい音をして耳から流れ出た。それは、鍛冶屋の鞴のように凄まじい音であり、鋭い刃に衝刺されるようであった。また或る時は、陶器の破片で刺すように烈しい頭痛を起こし、また或る時は鋭い庖刀で刳るように腹を刺して、燃ゆる炭火に身を投げ入れるような烈しい熱を起こした。

しかしお釈迦様は少しも退くことはなく。これを見て、或る者は死んだと思い、或る者はやがて死ぬであろうと思った。

お釈迦様は更に食を断とうと思い立たれた。僅かの豆小豆の類を摂るのみであったので身体がみるみる痩せ、足は枯葦のよう、臀は駱駝の背のよう、そして背骨は編んだ縄のように顕れ、肋骨は腐った古家の垂木のようにつきでて、頭の皮膚は熟しきらない瓢箪が陽に晒されたように皺んで、ただ瞳のみは落窪んで深い井戸に宿った星のように輝いていた。

腹の皮をさすれば背骨を摑み、背骨をさすれば腹の皮が掴める。

立とうとすればよろめいて倒れ、根の腐った毛は、はらはらと抜け落ちる。

他にも、常に立っている、常にしゃがんでいる、鉄の針の上に立ち臥すなど身体を苦しめる修行を行ったという。

お釈迦様は 「過ぎし世のいかなる出家者も行者も、または今の世、来たるべき世の如何なる出家者も行者も、これより上の烈しい苦しみを受けたものはないであろう。」と語った。


つまるところ、死にそうな苦行をしました。

が、しかし、お釈迦様は全く悟りに近づけない自分に気づきます。

汚い身体を川で洗い、里に下ります。


そこに「スジャータ♪スジャータ♪」で有名な(40代以上の人しかわからないかも?)

スジャータさんと出会います。彼女は高貴な雰囲気のお釈迦様が激やせしているのを見て、乳粥を差し出します。お釈迦様は乳粥を受け取ります。この時、修行仲間の5人は戒を破ったお釈迦様を蔑み、離れていきます。


体力を回復したお釈迦様は菩提樹の下に座り、深い瞑想に入ります。そして悟りを開かれます。悟りを理解することは難しいと考え、自分の中にとどめようと考えるお釈迦さんに、宇宙の神である梵天は人に説法をすることを勧めます。


そして、お釈迦様は長い説法の旅に発進するのです。

最初に説法をした相手は、あの修行仲間の5人です。

最初の説法は、中道、八正道、四諦を説きました。

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今日は、中道についてお話します。

中道とは不苦不楽と言われ、八正道のこと自体が中道とも言えます。


①愛欲快楽を求めるということ

②肉体的な疲弊消耗を求めること


これら両極端を避けた中道が人の眼を開き、理解を助け、心を平穏にし、優れた知恵を与え、正しい悟り・涅槃に近づくことができる。


と説いています。


①は分かりやすいですね。人は安きに流れる生き物です。できれば楽をしたい、できれば得をしたい、できれば気持ちいい快楽に身を委ねたい。それは人間の本性です。生き方がこちらに振り切ってしまい、行き詰ってしまう人は決して少なくないので、大いなる誘惑があり、それに行き過ぎれば決して良き結末とならないことを誰でもわかるかと思います。


その反面で②は、夢や目標を持った人、いわゆるコミットメントを求められる環境下などで「根を詰める」人は多いですよね。特に日本人は勤勉な民族ですから、死ぬまで頑張ってしまうこともあります。それは正しい判断を妨げ、能力を低下させ、本当の実力を発揮することができないということです。


この両方の極端に至ることなく、良き状態のことを”中道”といいます。

最初にこの教えを聞いた五人は中道を中途半端な堕落を勧める教えだと考えます。しかし、お釈迦様の説明を聞くうちに納得するのです。


確かに、一見すると緩い感じで、大したことない教えのようにも聞こえます。

でも、中道、実は奥が深いです。

判るようで解らない感じのする中道ですが、中途半端ないい加減な生き方をしなさいと言っているのではありません。お釈迦さんの説いた逸話が良い例示になるかもしれません。


血を流すほどの過酷な修行をしても悟りに近づけず苦しむ琴の名手に、お釈迦さんは

「弦を強く張りすぎたら、琴は良い音色を奏でるだろうか?」と聞きます。

「いいえ、そんなことありません。」

「それでは、弦を緩く張ったならば良き音を奏でるだろうか?」

「いいえ、それもありません。」

あなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎもなく、丁度よい張りを持っていたら、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろう。同じように、過ぎた努力は高ぶりを招き、努力が足りないのは懈怠を招く。ちょうどよい努力を保ちなさい。


という例示をされて弟子を導きました。

このような喩えを私たちは自分のものとして上手に取り込むことが苦手ですが、過度のプレッシャーの中で最高のパフォーマンスはできません。また、楽な方向へ逃げて集中力を欠いた状態では前に進むことはありません。各々の置かれた状況の中で適度な緊張感が最高の結果を生むことの無いことは、スポーツでも、勉強でも、仕事でも、同じことです。

この中道のエッセンスを頭の片隅に置いて、何かを成し遂げようと精進しているときには、自分の状態を確認するために利用してみてください。

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と締めくくりました。

すると、写経の参加者から、「結果をどうしても出したいときに、根を詰めてやってしまうけれども、よくないことですか?」

とご質問がありました。

集中力や緊張感に対する耐性のようなものは人によって違います。だから、どこまでならいいとかいう指標は判断が難しいし、特に日本人は真面目で頑張れてしまう民族です。

「自分を失っていないだろうか?」

周囲の人に「ありがとう」ができているか?

誰かと笑いあえているだろうか?

こんな感じが自分のチェックリストではないかと思います。


「中道」心のどこかにおいておいてください。










 
 
 

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