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江戸時代の大日山 利根川図志より

閉ざされた歴史

江戸時代~大正時代

時は慶長5年、1600年関ケ原合戦の世、一人の行者が利根川を望む山に霊気を覚え、錫をとどめる。
名を普賢と名乗った行者により山は開かれ、寺の歴史を刻むこととなった。江戸時代の記録によると、鎮守神の山”神崎の杜”、愛宕権現の山”愛宕山”そして当山、大日如来の山”大日山”が神崎三山とされ、神仏を大切にしてきた土地であったことがうかがいしれます。その中でも当山”大日山”は江戸時代末期まで天台宗の淨刹として、利根川を見下ろす一山を法界として「御山東照院」と称し、人々の信仰を集めておりました。

しかしながら、明治政府の神仏分離令及び修験道廃止令に端を発する廃仏毀釈を機に当山は閉山に追い込まれ、堂宇、仏像、書物は消滅してしまいました。いくつかの石仏・石塔は地中に埋められて難を逃れ現世に伝わっておりますが、ほぼ全ての記録が途絶えることとなりました。
以後は山頂の草庵にて近隣町村の篤信の人たちにより法燈がわずかに護持される時代が約100年続きました。この時代の供養帳が人々の信心を示す記録として保存されている。

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大日山の復興

現在、江戸時代の隆盛を偲ぶものは山頂山腹に点在する数十体の江戸時代の年号「寛政、安政」が刻まれている石仏や僧侶修験者の墓石・石碑のみです。

​第2次世界大戦は神崎の地にも多くの爪痕を残しましたが、戦争が終わるころに一人の修験行者が長沼村から10キロを超える道のりを弘法大師の尊像を笈に背負い、毎月ご縁日である21日に現れました。この真言宗醍醐派の修験行者により弘法大師の信仰が大日山に伝わり、修験の法流が大日山に伝わることとなった。

この修験行者が年老いて、ご縁日を勤めることは難しくなり、東照院(神崎寺の前身)の熱心な篤信信者たちは真言宗醍醐派の別格本山である品川寺を訪れ、順海大僧正に僧侶の派遣を依頼した。

そして昭和26年、機縁を得て真言宗醍醐派僧侶、秀宝大僧正が当地に派遣され、真言宗醍醐派の教風、殊に修験道(山伏)の法輪を転じ、伝法の中興になりました。
同年8月大利根河原、神崎渡船場付近
にて火生三昧火渡り修行を厳修。神崎御山の小さな草庵において護摩を焚き、次第に多くの人々の信仰の中心となっていきました。

その法力は村々に伝わり、小さな御堂には入れないのに山の下まで列が連なり、「護摩の残り火をお詣りするだけでもよい」と行事や縁日には多くの信者が参拝する山となりました。

神崎寺の興隆

昭和末期の伽藍整備

秀宝大僧正の遷化後、善哉大僧正は興隆する寺運を強く受け止め、多くの信徒の篤信を集め、昭和53年山内の造成整備を開始、昭和55年本堂落慶、昭和57年大日堂落慶、昭和62年恵印堂建立、平成4年歓喜天堂を建立して伽藍の再興をしました。本堂を中心に多くの行事が執り行われ、多くの信者が毎月の行事縁日を待ちわびては来山する寺となりました。

特筆すべきは、当山派修験道の恵印七尊を祀る恵印三昧耶堂の建立です。恵印堂は密教修行の道場であり、在家出家を問わず修行を行う修行道場です。堂内には十一体の仏尊が祀られ。この修行道場で多くの真言密教僧侶、当山派修験者が修行をして宗教者を輩出しました。恵印堂の中尊「不二大日如来(四臂)」は仏像として像立されるのは初めてのことで、謹刻発願の仏師服部俊慶師は、42日間堂内に籠る「堂彫り」作法により尊像を彫り上げ、江戸時代以来 “150年ぶりの成功”としてマスコミがとりあげ、TVや新聞・雑誌等において『究極の仏像』として紹介されました。
また、恵印堂落慶の法要には真言宗醍醐派に伝わる最勝恵印三昧耶法要が日本各地より参集した醍醐派の修験僧により執行され盛大な落慶法要となりました。京都醍醐寺以外の地で恵印曼荼羅諸尊を奉安し、真言宗醍醐派総本山醍醐寺伝統の恵印法要が厳修されたのははじめてのことでした

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寺は何のためにあるのでしょうか?

あなたはお寺の山門を敬虔な気持ちでくぐった事がありますか?
お寺の住職に悩み事を相談したことがありますか? お寺は敷居が高く近寄りがたいものとは思っていませんか? 戒名に値段があるとか思ってませんか?お坊さんは金持ちとか思ってませんか? この世に寺は必要なのでしょうか?

お寺はお坊さんの家ではありません。人が信仰を寄せる場所として神仏の力が集まる聖域です。お寺を大事にする人たちの信心を具現する場所です。

古来、人々のこの世の“悩み”や“苦しみ”そして“願い”に寺は関わってきました。
人の誕生には子宝の成就を祈り、縁あって授かった子宝に安産を祈り、新しい命には佛縁を願い寺から命名してもらい、子供が夜泣きをすれば蟲封じの祈願、無事の成長を願い身体健全・身上安全・学業成就を祈願、年頃になれば良縁成就を祈り、家庭を持てば家内安全を祈り、そしてこの世の別れのときには戒を授けるとともに仏の導きを祈り、なによりも人生の難局においては相談や苦しみを吐露し。まさに、寺は人生のすべてに関わってきた存在でした。

現在、寺はあなたの人生の拠り所になっているでしょうか。

もし、あなたの近くのお寺が悩みを聞いてくれないような寺しかないようでしたら、神崎寺へお出かけください。神崎寺はいつでもあなたの心の拠り所にいつでもなります。

神崎寺は人々の悩みや願いを聞き、護摩を焚き不動明王に祈り、心の拠り所となっ てきました。その姿勢はいまでも変わりません。

だれでも信仰をよせることができ、人生の苦しい時に救いを求める場所であり、苦しい人に救いをくださるように僧侶は命をかけて 拝む。
だからこそ、お不動様が願いを聞いてくださる。祈りなくして寺はない。そのような姿勢を守り昔からお寺が行ってきたことを全て行うことができるように日々精進しています。
場所は千葉県の成田から3駅、車では圏央道神崎インターから5分と少々便の悪いところではありますが、千葉のみならず東京、神奈川、埼玉、茨城など決して近くない人々が信仰を寄せているお寺です

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お坊さんに悩みの相談

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神崎寺はこんな寺

人は生きている限り常に思い通りにならないことの連続です。
ですから、心が病むこともありましょう、生きる元気を失いそうになるときもあるでしょう、やるせない気持ちに苦しむときもあるでしょう、人に言えない悩みを持つこともあるでしょう。そのような時、頼りになる寺でありたい。そして苦しい時を乗り越えて、また元気に笑顔でこの世をいきていただきたい。寺は、その教えによって人がこの世をよりよく生きる手助けをするために存在します。
だからこそ、生きているうちに縁を持って下さい。信頼して心を寄せられる寺にあなたが縁をもち、よりよいこの世の過ごしてください。

あなたの生きる時代は江戸時代ではありません。宗派のこだわりや菩提寺への義理など全く必要ありません。あなたのお寺はあなたが自由に選べる時代です。決して敷居の高い場所ではありません。苦しいとき、わからないとき、なにか不安なとき、話す場所が必要なときには寺にきてください。

神崎寺にはいろいろな人が来ます。毎月21日に何十年と欠かさずお参りに来る人、判断に迷って吉凶判断に来る方、祈願をされる方、供養をされる方、葬儀の相談もあれば、悩み事を持ち来られる方、ただお話をしに来る方、お掃除などのお手伝いして過ごしていく方、学生さんが修行にくることもあれば、本格的に僧侶や行者として仏道修行に励まれるかたもいます。形は違いますが皆、信仰を求め佛縁を求められている方々です。皆、最初は少しの勇気をだし、不安な気持ちで縁を持ったことでしょう。かたく考えることはありません。お寺に行ってみればいいのです。

神崎寺は本当の”お寺”でありたいと考えます。

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今の神崎寺

先代住職善哉大僧正の突然の遷化から4年間の住職不在期間を経て、荒れていた神崎寺に入山した現住職真勝僧正は、これからの寺の在り方として無意味な伝統ではなく、本物の寺として、真言密教、そして真言宗醍醐派の教風を伝える場所として、人のご相談、本物の祈祷、きちんとした引導が渡せるお葬式、信仰を持つことの素晴らしさを伝えるように努めています。時に厳しく、時に気さくに、時に型破りな和尚として全力でお寺を前に前に進めています。

必要な人に必要とされるお寺でありたいと考えるお寺ですので、お詣りにいらしてください。

​多くの方が笑顔になっているお寺です。

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