仏教教室シリーズ⑩六波羅蜜(持戒波羅蜜)
- 神崎寺

- 3 分前
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これは毎月の満月写経で行う10分仏教勉強講座の内容を保存したものです。生で聞きたい人は写経会にご参加ください。お待ちしています。
仏教を貫く根本的なコンセプトは、間違いなく「縁起の法則」にあるでしょう。
つまり、
仏教=縁起の法則
と言うことができます。
縁起の法則とは、「因 → 縁 → 果」の働きによって、あらゆるものごとが成り立っているという原理です。
だからこそ仏教では、「廃悪修善」によって幸せになると説きます。
悪いことをやめ、善いことを行う。これが廃悪修善です。
では、その「善いこと」とは何でしょうか。
そこで登場するのが、まず「八正道」です。
以前にも学びましたが、八正道とは自らが実践する幸せへの道です。これもまた開運につながる教えであり、廃悪修善を実践するための具体的な指針でした。
ただし、八正道は主として自分自身の行いや心の在り方を整える教えであり、他者への働きかけを直接説くものではありません。
そこで、お釈迦様はさらに一歩進んだ実践として、「利他」の教えを説かれました。
他者のために善いことを行うことです。
しかし、「善いこと」と一口に言っても、その内容は数え切れないほどあります。
その数多くの善行の中から、「これを実践しなさい」と代表的なものを示したのが六波羅蜜です。
前回は六波羅蜜の第一である「布施波羅蜜」について学びました。
布施とは、お坊さんに支払うお金のことではありません。見返りを求めず、喜びの心で施す「喜捨」のことです。
私たちの心の中には、もっと欲しい、楽をしたい、贅沢をしたいという思いがあります。その根底には、多かれ少なかれお金や財産への執着があります。
だからこそ、自分にとって大切なものを差し出すとき、人は本当の自分の心と向き合うことができます。
また、布施は必ずしも財産を伴うものではありません。以前学んだ「無財の七施」のように、お金がなくても実践できる布施もあります。

さて、今回は六波羅蜜の第二である「持戒波羅蜜」についてお話しします。
一般には「戒律を守って生きること」と理解されていますが、今回はもう少し深く考えてみましょう。
戒にはさまざまな種類があり、本来は修行の段階に応じて授かっていくものとされています。
ここでは、日本の道徳形成にも大きな影響を与えたとされる「十善戒」を紹介します。
私自身も、お葬式の際に故人へ戒を授ける場合には、この十善戒をお授けしています。
十善戒とは次の十項目です。
不殺生(無益な殺生をしない)
不偸盗(盗みをしない)
不邪淫(みだらな性行為をしない)
不妄語(嘘をつかない)
不綺語(お世辞や心にもない言葉を使わない)
不悪口(人の悪口を言わない)
不両舌(二枚舌を使わない)
不慳貪(必要以上に欲しがらない)
不瞋恚(感情のままに怒らない)
不邪見(真理に背いた誤った見方をしない)
もちろん、これらを完全に守れるかどうかは別の問題です。
しかし、このような戒を保ちながら生きようとすることが「持戒」です。
そして、持戒をさらに深めるために大切なのが、「誓い」を立てることです。
出家者の場合、神仏や祖師の前で誓願を立てるとともに、その誓いを証明する複数の僧侶が立ち会います。
つまり、人や神仏の前で約束をするのです。
ここに大きな意味があります。
有言実行です。
仏教の根本理念は廃悪修善です。
だからこそ、「私は善い行いを実践します」と言葉にして誓うのです。
誓いの言葉は自らの心に深く刻まれます。そして、その決意は潜在意識の奥底にまで届き、「私はこの道を歩む」と強く意識づけられます。
仏教では、この深層意識を阿頼耶識と呼びます。
すると、戒に反する行為をしようとしたとき、自らの心が警鐘を鳴らし、「ダメダメ」と立ち止まらせてくれるのです。
これは、幼い頃に親から「悪いことをしてはいけません」と教えられ、その言葉が心に残っているのと少し似ています。
戒を授かる際に厳粛な儀式が行われるのも、その誓いを心の奥深くまで刻み込み、決意を確かなものにするためなのでしょう。
決して形式だけのものではありません。

では、誓いを立てなくても善いことをすれば十分ではないでしょうか。
確かにその通りです。
誰にも知られず善行を積むことは、とても尊いことです。
しかし、人は弱い存在でもあります。
誰にも宣言していなければ、途中でやめてしまうことも容易です。
だからこそ、自ら退路を断ち、仏道を歩み続けるために、有言実行という形の誓願が重視されるのでしょう。
このように、持戒波羅蜜もまた、実践する人自身の運を開き、人生をより良い方向へ導いていきます。
そして仏教が目指すのは、単なる開運ではありません。その先にある真の幸福です。
この教えは決して死者のためだけのものではありません。
本来は、生きている間に学び、実践すべき教えです。
しかし現代では、多くの人が仏教との縁を求めることなく人生を終え、その結果として葬儀の場で初めて教えに触れることも少なくありません。
さらに近年は、お経を唱えるだけの葬儀も増えています。
もし仏法に触れる機会がそこにもなかったとすれば、その方にとっては今生において仏縁を結ぶ機会がなかったということになるのかもしれませんね。






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