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仏教教室シリーズ⑨六波羅蜜(布施波羅蜜)

これは毎月の満月写経で行う10分仏教勉強講座の内容を保存したものです。生で聞きたい人は写経会にご参加ください。お待ちしています。


前回は縁起(えんぎ)をテーマにしました。八正道(はっしょうどう)の後に縁起を学んだのは、もちろん真理(しんり)であることもありますが、ここから先は縁起を頭に入れておいて、その真理に基づいて仏教の教えが説かれていることをわかって欲しいからです。


さて、既に学びました八正道ですが、人が幸せに向かって生きるための生き方を具体的に説いています。そして、その向かう先には悟りがあります。しかしながら、その悟りは限定的なものだと言われます。なぜならば、八正道は常に「自分」が何をするということが教えになっており、「自利(じり)の修行」とされ、到達する悟りは阿羅漢(あらかん)のものだと言われます。


私たちが目指すべきなのは「仏」の悟りです。そこには「利他(りた)」の修行が必要なのです。


利他の修行、そこには勤めるべき「善」が説かれています。無数にある善の中で、「何をしたらいいの?」と悩んでしまいます。そこでお釈迦様は「これをすればいいよ」と説かれているのが「六波羅蜜(ろくはらみつ)」の修行なのです。


布施波羅蜜(ふせはらみつ)

持戒波羅蜜(じかいはらみつ)

忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)

精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)

禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)

般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)


の六つの修行を定め、努めるべき善としました。


これらの善を勤めることにより、因果(いんが)の法則が本当の悟りに導きます。つまり、幸せの法則とも言えます。


今日は一つ目にして、最強の効果を生むといわれる、布施波羅蜜を学びましょう。


布施と言えば、「お寺に支払うお金」という理解の人も少なくないかと思います。しかし、それは正解であって不正解です。代金や料金だと思っている場合には不正解ですね。


布施には、二種類のものがあります。

財施(ざいせ)と法施(ほうせ)です。


財施というのは、眼に見える経済価値のあるものを差し出すことを言います。


人は誰でも自分が美味しい御飯を食べていたいし、楽をしたいし、欲しいものを手に入れたいものです。そのためには、現代ではお金が必要です。だから、お金を手放す時には対価を手に入れなければならないと自然に考えます。


布施というのは、喜捨(きしゃ)とも言いますが、一つには自分のために行うことでなくてはいけないし、二つには対価を手に入れる考えがあってはいけません。


では、なぜ見返りを求めずに布施を行うのでしょうか。


この問いに対して、お経の中に次のような逸話が説かれています。


ある時、仏縁(ぶつえん)深い女性が、托鉢(たくはつ)に訪れたお釈迦様に食べ物を布施しました。


するとお釈迦様は、

「1つの種をまけば10の種が生じる。その10の種をまけば100の種になる。その100の種をまけば1000の種になる。このように、善いたねは、万にも億にもなっていく」と言われました。


女性は心から喜びます。


しかし、その夫は、「そんなことあるはずがない。そんな嘘に騙(だま)されるな」と言います。


その夫がお釈迦様を見つけてくってかかります。


するとお釈迦様は、こう尋ねられました。

「あなたはニグローダ樹(じゅ)の高さはどのくらいあると思うか?」


「四十里ほどあると思います。あれは数年で数え切れないほどの実がなります」


「その実はどのくらいの大きさか?」


「ケシくらいです」


その時お釈迦様はこう言われています。

「一粒の小さな種から、やがて四十里の木が生えて、数十万の種が収穫できる。それと同じように、仏教のために布施をすれば、その福徳は計り知れない」


それを聞いた男は、仏教を信じるようになって夫婦仲良く仏教を聞くようになったと伝えられています。


ちょっと現代の私たちは、こんなに簡単に改心するとは思えません。


でも、徳というものは、善き種をまき、その功徳(くどく)は巡り巡って大きな果実を生むのだと教えられます。

これが二グローダ樹です
これが二グローダ樹です

でも、これだけでは、まだ納得がいきませんよね。


タイミングも大切です。


こんな言い訳よく聞きます。

「お金がないから。」とか「お金がたまったら」とか。

これは多くの場合に、布施をしない言い訳です。


お布施は自分との対話です。大切なものと考えているのか、それともお金の執着(しゅうちゃく)の方が勝るのか。もちろん、本当にお金に困っている人が無理をしろと言っているのではありません。


高野山に伝わるお話に「貧女(ひんにょ)の一灯」というものがあります。


その昔、和泉の槇尾山のふもとに捨てられた子供がありました。 拾われた子供は大切に育てられ、すくすくと美しく育ち、村いちばんのやさしい娘になったが、十六歳の時に母を亡くし、父も後を追うようにこの世を去った。


両親を失った娘は、一人ぼっちとなってしまったが、旅人から高野山燈籠堂(とうろうどう)の話を聞き、両親のため燈明を「奥の院」にお供えしようと決心しました。


けれども、貧しいくらしの娘は、燈籠供養料は用意できなかった。


そこで、女の命とまでいわれる黒髪を切って、お金にかえることにした。

髪を切り短髪となった娘は灯籠と油を買い求め、両親の位牌とともに高野山へ向かった。

しかし、高野山の女人禁制の掟を聞き途方に暮れていたところを、高野山から下りてきた僧侶に助けられた。娘は女人堂で燈籠を渡し、燈籠は無事に高野山奥の院に並べられた。


奇しくもその日は、土地の長者が一万基(いちまんき)の燈籠(とうろう)を寄進した法会(ほうえ)があり、奥の院で新しい一万個の燈籠が灯され、お経の声に包まれて、幻想的な光景となった。


長者は、ふと燈明に目をやったとき、粗末な灯籠の一灯に気付き、

「あの小さな灯ろうは、だれのものか。」と僧に尋ねた。


「あれは貧しい娘がささげました。」と聞いたとたん、

「いやしい女の、明かりが何になろう。」と立ち上がろうとした。


するとにわかに風が吹き込んで、燈籠が吹き消され、お堂の中は真っ暗になった。

その暗闇の中に、一つの光明(こうみょう)があった。娘の燈籠だった。


この不思議なできごとに、長者は自分の考えを恥ずかしく思い、両手を合わせたという。


それから、娘の灯(ともしび)は「貧女(ひんにょ)の一灯」として、長い年月を一度も消えることなく、今もなお「奥の院」の燈籠堂で清い光を放っている。


このお話が本当かどうかはわかりませんが、それは問題ではありません。

心のこもった布施(ふせ)というものが、いかに尊いかを伝えています。


そして、お金があるからするものではなく、するのだという決意をもってするものだと物語っています。

先日、職を失った男の人が寺にお詣りに来ました。

男は「お賽銭(さいせん)はいくら入れるべきですか?」と聞きました。


「懐(ふところ)が痛む金額が大切です」と答えました。


職を失って苦しい時でしたが、彼は1000円札を出しました。

でも、私は「今日は100円でよいのではないですか」と言いました。


だって、今の彼には100円でも懐が痛いでしょうと感じましたから。


でも、その彼はその後に就職の面接に行った帰りに、会社の近くの名物カステラをもってお寺に来てくれました。

就職ができたかどうかはわかりませんが、お詣りして気持ちよく面接に行けたから、お寺にカステラを届けたいと思ったのでしょう。


お布施のカステラはお供えして、皆でいただきましたが、とても美味しいものでした。


お布施の金額は、人それぞれの状況によって重みが異なります。

大切なのは額ではなく、その人の心です。


「お気持ちで」と言われるのは、そのためです。

しかし、それが伝わらないことも多く、結果として金額が形式化されてしまい、「払った」「取られた」という感覚が生まれてしまうのは残念なことです。


もう一つ、お布施の相手ですが、これも大切だと説かれています。


悪人に布施をすれば、悪いことに使うでしょう。

怠(なま)け者に布施をすれば、ますます堕落(だらく)するでしょう。

遊び人に施しをすれば、キャバクラに行ってしまうでしょう。


お釈迦様は、布施の相手として「福田(ふくでん)」を説かれています。


①敬うべき徳(とく)を備えた人

 具体的には、まずは仏様や教えを正しく伝える人です。

②恩(おん)をくれた人

 例えば、両親や学校の先生などです。

③気の毒(きのどく)な人です

 例えば、病気の人や妊婦(にんぷ)など大変な状況の人です。


これらの布施は大きな幸せとなって返ってくるのです。

特に、心をこめた親切は、親切をした人に報われます。


実は、本当に幸せになるのは、施(ほどこ)しを受けた人よりも、むしろ、施しを行った人です。


そして、今まで、財施(ざいせ)は財で行うと言ってきていますが、「無財(むざい)の七施(しちせ)」というものがあります。

つまり、金銭でない布施があると言われます。


それは、


① 眼施(がんせ)(慈(いつく)しみの目を向けること)

② 和顔施(わがんせ)(優しい笑顔を向けること)

③ 言辞施(ごんじせ)(優しい言葉をかけること)

④ 身施(しんせ)(身体の行動で助けになることをすること)

⑤ 心施(しんせ)(優しい心を相手に向けること)

⑥ 床座施(しょうざせ)(座る場所を必要な人に譲ってあげること)

⑦ 房舎施(ぼうしゃせ)(雨風をしのげる場所を与えてあげること)


例えば、最後の房舎施は四国の遍路で善根宿(ぜんこんやど)と言われるものがあり、お遍路をする人に宿を布施する習慣がありました。

が、悪用する人が多く、住み着いてしまったりする人がでて、現在はほとんどなくなってしまいました。


日本という国は優しさや仏教の信仰によって世界でも類を見ないほどの良い治安が護られてきました。


「無財の七施」は当たり前のように行われてきていました。

少し残念な変化が多くなってきましたが、自分の周りだけでも善き縁の人と良き布施ができるように護っていきたいですね。


今日は、10分もオーバーしてしまいました。

法施(ほうせ)はお話できませんでしたが、仏教の教えを与えることだと理解しておいてください。


お疲れ様でした。




 
 
 

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