top of page
利根川図史 (2016_09_20 06_22_24 UTC).png
江戸時代の大日山 利根川図志より

閉ざされた歴史

江戸時代~大正時代

時は慶長5年、西暦1600年関ケ原合戦の世、一人の行者が利根川を望む山に霊気を覚え、錫をとどめる。
名を普賢と名乗った行者により大日山は開かれ、寺の歴史を刻むこととなる。江戸時代の記録によれば、鎮守神の山”ひさご山”、愛宕権現の山”愛宕山”そして当山、大日如来の山”大日山”が神崎三山とされ、神崎は神仏を大切にしてきた土地であったことがうかがいしれる。当山”大日山”は江戸時代末期まで天台宗の淨刹として、利根川を見下ろす一山を法界として「御山東照院」と称し、人々の信仰を集めておりました。

しかしながら、明治政府の神仏分離令及び修験道廃止令に端を発する廃仏毀釈により、当山は閉山に追い込まれ、堂宇、仏像、書物は消滅する。いくつかの石仏・石塔は地中に埋められて難を逃れ現世に伝わるが、ほぼ全ての記録が途絶える。
以後、山頂の草庵において近隣町村の篤信の人々により法燈がわずかに護持される時代が約100年続く。この時代の供養帳が人々の信心を示す記録として保存されている。

15092117_edited_edited_edited.jpg
15092118.JPG

大日山の復興

現在、江戸時代の隆盛を偲ぶものは山頂山腹に点在する数十体の江戸時代の年号「寛政、安政」が刻まれている石仏や僧侶修験者の墓石・石碑のみである。

​第2次世界大戦は神崎の地にも多くの爪痕を残し、戦争が終わるころ一人の修験行者が長沼村から10キロを超える道のりを弘法大師の尊像を笈に背負い、毎月ご縁日である21日に現れました。この真言宗醍醐派の修験行者が弘法大師の信仰を大日山に伝え、当山派修験の法流を大日山に伝え、大日山に再び風が吹き始めた。

この修験行者が年老いて、ご縁日を勤めることが難しくなり、東照院(神崎寺の前身)の熱心な信者たちは真言宗醍醐派の別格本山である東京・品川寺を訪れ、順海大僧正に僧侶の派遣を依頼した。

そして昭和26年、機縁を得て真言宗醍醐派僧侶、秀宝大僧正が当地に派遣され、真言宗醍醐派の教風、殊に修験道(山伏)の法輪を転じ、伝法の中興となった。
同年8月大利根河原、神崎渡船場付近
にて火生三昧火渡り修行を厳修。神崎御山の小さな草庵において護摩を焚き、次第に多くの人々の信仰の中心となっていった。

その法力は村々に伝わり、縁日や行事では、小さな御堂に入れないのに山の下まで列が連なり、「護摩の残り火をお詣りするだけでもよい」と多くの信者が参拝する山となりました。

神崎寺の興隆

昭和末期の伽藍整備

秀宝大僧正の遷化後、

後継の善哉大僧正は興隆

する寺運を強く受け止め、

多くの信徒の篤信を集め、

昭和53年、山内の造成・

整備を開始。

昭和55年本堂落慶、

昭和57年大日堂落慶、

昭和62年恵印堂建立、

平成4年歓喜天堂建立

堂宇を建立し、伽藍の

再興をしました。

本堂を中心に多くの行事

が執り行われ、多くの

信者が毎月の行事縁日を待ちわびては来山する寺となりました。

特筆すべきは、当山派修験道の恵印七尊を祀る恵印三昧耶堂の建立です。恵印堂は密教修行の道場であり、在家出家を問わず修行を行う修行道場です。堂内には十一体の仏尊が祀られ。この修行道場で多くの真言密教僧侶、当山派修験者が修行をして宗教者を輩出しました。恵印堂の中尊「不二大日如来(四臂)」は仏像として像立されるのは初めてのことで、謹刻発願の仏師服部俊慶師は、42日間堂内に籠る「堂彫り」作法により尊像を彫り上げ、江戸時代以来 “150年ぶりの成功”としてマスコミがとりあげ、TVや新聞・雑誌等において『究極の仏像』として紹介されました。
また、恵印堂落慶の法要には真言宗醍醐派に伝わる最勝恵印三昧耶法要が日本各地より参集した醍醐派の修験僧により執行され盛大な落慶法要となりました。京都醍醐寺以外の地で恵印曼荼羅諸尊を奉安し、真言宗醍醐派総本山醍醐寺伝統の恵印法要が厳修されたのははじめてのことでした

15091930 (2)_edited_edited.jpg
山門.jpg

寺は何のためにあるのでしょうか?

あなたはお寺の山門を敬虔な気持ちでくぐった事がありますか?
お寺の住職に悩み事を相談したことがありますか? お寺は敷居が高く近寄りがたいものとは思っていませんか? 戒名に値段があるとか思ってませんか?お坊さんは金持ちとか思ってませんか? この世に寺は必要なのでしょうか?

お寺はお坊さんの家ではありません。人が信仰を寄せる場所として神仏の力が集まる聖域です。おその寺を大事にする人たちの信心を具現する場所です。

古来、人々のこの世の“悩み”や“苦しみ”そして“願い”に寺は関わってきました。
人の誕生には子宝の成就を祈り、縁あって授かった子宝に安産を祈り、新しい命には佛縁を願い寺から命名してもらい、子供が夜泣きをすれば蟲封じの祈願、無事の成長を願い身体健全・身上安全・学業成就を祈願、年頃になれば良縁成就を祈り、家庭を持てば家内安全を祈り、そしてこの世の別れのときには戒を授けるとともに仏の導きを祈り、なによりも人生の難局においては相談や苦しみを吐露し。まさに、寺は人生のすべてに関わってきた存在でした。

現在、寺はあなたの人生の拠り所になっているでしょうか。

お坊さんに相談する

もし、あなたの近くのお寺が悩みを聞いてくれないような寺しかないようでしたら、神崎寺へお出かけください。神崎寺はいつでもあなたの心の拠り所になります。

神崎寺は人々の悩みや願いを聞き、護摩を焚き不動明王に祈り、心の拠り所となっ てきました。その姿勢はいまでも変わりません。

だれでも信仰をよせることができ、人生の苦しい時に救いを求める場所であり、苦しい人に救いをくださるように僧侶は命をかけて 拝む。
だからこそ、お不動様が願いを聞いてくださる。祈りなくして寺はない。そのような姿勢を守り昔からお寺が行ってきたことを全て行うことができるように日々精進しています。
場所は千葉県の成田から3駅、車では圏央道神崎インターから5分と少々便の悪いところではありますが、千葉のみならず東京、神奈川、埼玉、茨城など決して近くない人々が信仰を寄せているお寺です

IMG_9733.JPG
Houwa.jpg

神崎寺はこんな寺

人は生きている限り常に思い通りにならないことの連続です。
心が病むこともありましょう、生きる元気を失うときもあるでしょう、やるせない気持ちになるときもあるでしょう、人に言えない悩みを持つこともあるでしょう。そのような時、頼りになる寺でありたい。そして苦しい時を乗り越えて、また元気に笑顔でこの世をいきていただきたい。寺は、その教えによって人がこの世をよりよく生きる手助けをするために存在します。
生きているうちに縁を持って下さい。

あなたの生きる時代は江戸時代ではありません。あなたのお寺はあなたが選べる時代です。苦しいとき、わからないとき、なにか不安なとき、話す場所が必要なときには寺にきてください。

神崎寺にはいろいろな人が来ます。毎月21日に何十年と欠かさずお参りに来る人、判断に迷って吉凶判断に来る方、祈願をされる方、供養をされる方、葬儀の相談もあれば、悩み事を持ち来られる方、ただお話をしに来る方、お掃除などのお手伝いして過ごしていく方、学生さんが修行にくることもあれば、本格的に僧侶や行者として仏道修行に励まれるかたもいます。形は違いますが皆、信仰を求め佛縁を求められている方々です。皆、最初は少しの勇気をだし、不安な気持ちで縁を持ったことでしょう。かたく考えることはありません。お寺に行ってみればいいのです。

神崎寺は本当の”お寺”でありたいと考えます。

寺子屋集合.JPG

今の神崎寺

先代住職善哉大僧正の突然の遷化から4年間の休山を経て、荒れていた神崎寺に入山した真勝僧正は、無意味な伝統ではなく、本物の寺として、真言密教、そして真言宗醍醐派の教風を伝える場所として、人のご相談、本物の祈祷、きちんとした引導が渡せるお葬式、信仰を持つことの素晴らしさを伝えるように努めています。時に厳しく、時に気さくに、時に型破りな和尚として全力でお寺を前に前に進めています。

必要な人に必要とされるお寺でありたいと考えるお寺ですので、お詣りにいらしてください。

​多くの方が笑顔になっているお寺です。

bottom of page