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二七不動尊の由来二七不動はかつて江戸幕府に仕えた直参旗本の桜井氏の屋敷内の小さな石仏不動明王であった。このお不動様が供養されたことにより、二七山不動院という御寺に成長し、現在でも二七通りという道路の名前が残るまでに興隆した歴史がある。 平成17年の火災により二七山不動院は焼失し、石仏本尊および御前立本尊は10年の間、神崎寺に居を移していましたが、平成26年に墨田区太平町に場所を移し、現在の二七山不動院に祀られ、その伝統は守られている。
ここに語られるのは、戦後、二七不動を興隆させた福島秀宝大僧正が言い伝えを記録したものである。 二七不動尊の由来(昭和24年からお堂を守った福島秀宝大僧正の遺稿) 今からかぞえれば昔のはなし。昔、明治十二年、ここ番町に直参旗本三千五百石どりの桜井遠江之守屋敷あり、その馬かけ場の一遇に小さな塚があって、その上にお不動さんの祠があった。 その当時は付近の信心げのある人々がたまにお参りに来る程度であまり繁盛しなかったらしく、お不動さんもせっかく信心堅固の者に後利益を呉れてやろうと意気込んでいたが、余り閑なので手持無沙汰でいたところ、たまたま九州から東海道を上ってきた松本某という六部がこのお不動さんの前でいっぷくしているうちにうとうとと仮眠してしまった。 其の時の夢にお不動さんが「おい乞食坊主、お前がいくら日本中修行したとて名僧智職にはなれないから、この地に止まり私を供養して祈れば、私もお前に衣食住を与えてやろう。」と言われて目が覚めたが、別に気にもせずに出発してから一丁程行くと煙草入れを忘れたのに気付き、引き返し、たばこ入れをとって歩き出した。 また、一丁ほど来て今度は手拭きを忘れたのに気附き、再び取りに来て今度こそはと祠をあとにして、また一丁程くると一番初めにお不動さんを祈る時使用した念珠を祠の台石に置き忘れたのに驚き三度引き返して取りに来たとき、ようやく先ほどの夢が気になり、どうやら正夢のように思われたのでついにこのお不動さんの前で野宿したのが始めで、やがて掘立小屋を造り、托鉢をしながらお不動さんを祈り供養しているうち、篤信の人が小さな堂を寄進したのに始まってだんだん参詣者もふえて来た。 それで少しはお不動さんの修行をせにゃんらんと思って修行を重ね、更に二七日の間、断食して荒行した。 以来、二七不動と称し縁日も二、七、十二、十七、二十二、二十七、と月六回の縁日と決めたもので、別にお不動さんが申し渡したものではないらしい。 尤も縁日を多くした方がいろいろ都合がよいとの方便だったかもしれない。 このお不動さんは、お参りに来るお客さんを大事にしたとみえて信者の願いを良く聞き届け月日を重ねるうちにますます繁盛した。 もっとも、お不動さんの経文中にはこの明文は信心願主のねがいに従って然も利益を多く給うと説かれているから、お不動さんとしては、当然の義務を果たしたわけだ。 其の後、歳かわり星うつりて、のち堂守がこのお不動さんを神田美土代町の質屋に当時の金で三両で入質したが、其の堂守は野垂れ死にして仕舞ったそうな。 また預かった質屋の主人は眼病に悩み、番頭は蔵の梯子から落ちたのがもとで死んで仕舞ったので、質屋はこのお不動さんを返すという話がきまり、当時の三業柴田見番時代に牛車に赤毛せんを敷いてお不動さんをのせ、木遣り音頭で不動堂へお返ししたという話がある。 其の後改築したり増築したりして堂宇らしくなった時、大正十三年の震災で灰尽に帰したが、再び町内の有志篤信の人々の力で立派な不動堂が再建されたが又々、第二次大戦の戦災で堂宇は焼け出されたが、お不動さんだけは全く無事だったことは信者にとっては誠に不幸中の幸いであった。 終戦直後鎌倉の有名な寺の堂宇をゆずり受けてきたのが現在の不動堂である。(昭和40年に神崎寺に移築し、観音堂として現存)。 昔は麹町区内には他に仏堂が全くなかったので、このお不動さんだけが仏法僧の一人じめだったせいか、二七の縁日もなかなかに盛大で縁日商人も百を数え、植木屋の夜店もこと更ににぎやかであったと古老は語っている。
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